尺別炭鉱 冬
雄別炭礦尺別鉄道線の跨道橋橋脚部が廃線後も遺されています。尺別鉄道線は1970(昭和45)年の閉山と共に廃止となりました。
新尺別駅周辺にある尺別炭鉱閉山30周年記念の復興記念碑です。1970年の閉山から30年ということは、2000年頃のものでしょうか?この復興が指すものは恐らく、太平洋戦争の末期に急速転換『樺太及釧路に於ける炭砿労働者、資材等の急速転換の件』により一時休坑となったが戦後に復興を果たした、ということだと思います。裏面に説明がありました。
裏面に刻まれていた文章には、『大正7年10月開礦から順調に発展し、昭和14年には(尺浦隧道の開削を開始し)浦幌炭鉱と綜合運営し増産を進めてきたが、昭和19年8月の国策により全操業員は九州地区の(三菱系)炭礦に配置転換となった。その後終戦に遭遇し、昭和21年5月に採炭が再開され復興を遂げた』ことが記載されているようです。ちなみにその後、GHQの財閥解体司令により雄別炭砿鉄道は三菱鉱業から分離独立、昭和24年には雄別砿業所より独立し、尺別砿業所となりました。世相が油主炭従に変化するなかでも開発を行ってきましたが、1969年の雄別茂尻炭砿(赤平市)ガス爆発事故が大打撃となり翌1970年、雄別・尺別・上茶路三山の企業ぐるみで閉山となってしまいます。
尺別生活館の裏手にあるコンクリート遺構ですが、何なのかはわかりません。
コンクリートに守られて、古そうなコカ・コーラの瓶が遺っていました。ホームサイズと書いてあります。
これも何の建物だったのかはわかりません。
こちらは尺別生活館。傷みが進みながらも現存しています。音別町が建てたもので、地域の集会などで使われていたもののようです。
生活館の道路向かいにある尺別給油所です。
そしてこちらは新尺別駅の給水塔台座。蒸気機関車に給水するためのタンクで、何故か台座だけが遺されています。
台座の上にはタンクではなく、雪が乗っています。
尺別炭鉱 秋
いつもの場所から川を渡り、選炭場付近に到着。夏場の訪問では草木に阻まれ見通しが悪かったので、秋に訪問してみました。やはりこの時期は遺構が良く見えます。
山の斜面一杯に設置された、要塞とも言われる尺別の選炭機ですが、尺別川を越えてここまで来たのは今回で2回目になります。
何でしょう、レールが突き出ています。
これは選炭機の一部でしょうか?
トンネルになっていますが、何なのかはさっぱりです。選炭場は難しいw
この斜面一体が選炭場だったようです。ここを登って上から見てみたいのですが、あまりに急斜面なので他を探します。
尺別炭山駅が見えます。もう形を成してません。
これは前回の訪問で見つけた滑車ですね。ということは前回訪問時、先程のカッコいい遺構を見落としていたということになります。秋に来て良かったw
崖の上から伸びる隧道(右)伝いに登ってみました。前回もこの辺りまでは来ていたハズ。
草木が枯れているので前回より遥かに見やすいですね。
この隧道は、ベルトコンベアが通っていたもののようです。ここで左上にある岩に気が付きます。岩というかコンクリート片でしょうか?落ちてきたら危ない!
ふと見ると、この壁の向こうにも遺構があるのを確認出来ましたので、早速行ってみることにします。
隧道は上まで続いていますが、コンクリート片が怖いのでここを離れます。
滑り落ちないよう気をつけながら山の中腹を移動します。ワイヤー発見。
その先には錆びたトタンが散らばっていました。ここにはどんな設備があったのか気になりますね。
巨大なポケットにある連結ホッパーです。
コンクリート柱がたくさんあるのが魅力的です。
周辺には遺構だらけです。下から見ただけではわかりませんでした。
斜面に拡がる遺構ですが、大きすぎて写真に収まりません。というか、枯れ木がかなり邪魔してきますw
足元にはベルトコンベアでしょうか?ゴムベルトは劣化しながらも遺っています。
ホッパーを横切り、山の上へと続く道を登ってみると、林の奥に何かの遺構が見えました。そろそろ日が傾き始めています。
建物の反対側にも何かの遺構があります。しかし間もなく日没の予感。
ズリのようなものが溢れてきているのが見えます。
とりあえず一周してみました。間もなく日没で時間切れです。
建物周辺にも何かが建っていたような基礎が見られます。ここにはいつかまた来てみたいと思います。
足元には写真で見たことのある碍子が落ちていましたが、日が暮れる前に急いで戻ります。