釧路郡釧路町別保にかつて存在した太平洋炭礦別保坑。選炭場の壁だけが遺され、住宅地の片隅で今も確認出来ますが、訪問当時はGoogleマップなどのお手軽な情報源や、ネットの情報も乏しい時代。手持ちの資料と地域住民からの聞き込みだけを頼りに遺構を探して、別保山中を歩き回った時の記録です。
太平洋炭礦別保坑の概要です。別保地区の開坑は明治時代。大正9年に太平洋炭礦発足後、本格的な採炭を開始。昭和19年には国策により休坑(九州への強制転換)し、終戦後の昭和21年に再開するも出炭が思わしくなく、昭和24年に閉山となりました。
別保坑の遺構を見つけるため、名前も知らない林道ゲートの前に立っています。キッカケは北海道釧路市庁による平成19年3月発行の「くしろの産業遺産」という冊子。雄別を始めとする釧路管内にある18の歴史的産業遺産が掲載されており、観光資源として掘り起こすことを目的として計画・作成されたもののようです。別保坑については下記のように記載されていました。
《年代》1920年(大正9年)~1949年(昭和24年)
《所在地》釧路町別保南・双河辺
《現存する施設》坑口/火薬保管庫/馬車軌道のレールなどは原型が一部残存
と言うわけで、別保炭鉱を探してみることに。
冊子のざっくりした地図では場所がわからなかったので、航空写真でそれっぽい林道に当たりをつけました。ゲートから入って少し歩くと古めかしい苔むした岩があり、岩の前にある電柱がこの先に建造物があることを物語っていました。電線を辿って進んでみます。
見つけたのはコレ。電線は、この建造物に引き込まれていました。坑道を連想させるようなアーチですが、プレートには「防災科学技術研究所 釧路地震観測所」とあります。建物はまだ新しいもので、別保炭鉱とは関係ないようです。ここで林道は二手に分かれます。
少し登ります。車で通れる程の道幅です。15分程登山を行い、余りに何も無さ過ぎるので引き返しますw
もう片方の道です。道幅が一気に狭くなり落石もあって期待が持てますが、少し進んだところで生々しい鹿の足骨(蹄付き)を発見。熊を連想して怖くなり撤退しましたw
林道ゲートに引き返す途中、川辺に炭層のようなものを発見しました。やはりこの辺りに炭鉱があったことは間違いないと思いますので、地元の方に聞き込みをしてから出直すことに。
別保炭鉱の選炭場 |
後日、聞き込みのお陰であっさり遺構を見つけました。選炭場とのことですが、壁しか遺ってないようです。周辺には住宅が立ち並び、炭鉱跡にはゴミ収集BOXが設置されていました。
探していた坑口・火薬庫・馬車軌道のレールではなかったのですが、むしろ大物ですw
子供の頃の記憶ということで、ここの位置や坑口の場所、昔は山の中が赤く燃えていたというお話しなどを聞かせて戴きました。残念ながら火薬保管庫・馬車軌道のレールについては知らないとのことです。ここは住宅地で立入禁止の看板もあるので、これ以上の探索は諦めます。
更に後日。この選炭場付近の航空写真を調べ、火薬庫跡らしい「影」をみつけました。先の住人に聞いた坑口と赤く燃えていたという場所、これらの緯度と経度を地図アプリ「地図ロイド」に登録し、GPSを使用しての探索を行いました。火薬庫の影はこの遺構からすぐ近くでしたが、立入禁止のところからアタックするわけにも行かず、仕方なく山の逆側から目指すことにします。
ズリからは、レールが突き出ています。この辺りに何かあったことは間違いなさそうです。しかしその後、GPSを頼りに火薬庫の影と坑口を探しましたが、所詮スマホのGPSと航空写真の画像を元に調べた位置情報ですので、探し出すのは無理でしたねw それでも、レールを見つけるという収穫はありました!!
翌年、また遊びに来ました。北海道の炭鉱跡のほとんどは人里離れた山奥にありますが、ここは珍しく住宅街。と言っても閉山と共に町が消えたのか、発展して残ったかの違いでしょうか。
資料によると、昭和14年に別保第一斜坑を開削し斜坑出炭にあわせて石炭貨車の導入を見込んだ新選炭場が建設されたとあるので、その頃のものかな。結構古いですね。
上に登ってみてみたいところですが、ここは住宅街なのでやめておきます。
が、『鹿道』なるものを近所の散歩中の方に教えて戴いたので、鹿が通るという獣道を少し登ってみました。