野塚海岸トーチカ
写真中央付近に小さく見えるのがトーチカです。トーチカまでは砂利浜を歩いて行くことになりますが、広尾町から大樹町にかけての海岸トーチカはいつもこんな感じなので足腰が鍛えられますねw
やっと近づいてきました。波打ち際にあるトーチカですが、もうすぐ砂浜に沈んでしまいそうです。最初からこの位置に設置されていたわけではなく、崖の上から落下したものが流されてきたようです。
見た感じ、天地ひっくり返ってしまってるようにも見えますが…消波ブロックのコンクリートに紛れてトーチカとの区別がつかなくなっています。
側面にあるこの溝と穴は何でしょう?通気?
後部連絡口、と思われますが…
中を覗くと砂と砂利で埋もれており、銃眼が(あるのなら)見当たらないです。
トーチカの上面です。開いていた穴から連絡口を通して海岸の砂利浜が見えています。ひっくり返っていたのなら底面ということになりますが、こんな穴が床にあるわけないのでひっくり返ってたワケではなさそうですが、それにしても仕上げが粗いのでやはり底面なのかも知れません。そうなると何故わざわざ木枠で囲んでまで床に穴を開けたのかわかりません。
こうして見ると相当埋もれてしまっていることがわかります。飲み込まれるのも時間の問題かと。
楽古川河口トーチカ
トーチカの真上にある看板ですが、来てはみたものの季節柄草が面倒臭いのでパスw
野塚防霧林トーチカ
比較的内陸部にあるトーチカです。遊歩道が整備されています。
整備・管理されたトーチカの前には看板が設置されています。
概要を文字に起こすとこんな感じです。『1944(昭和19)年4月、旧日本軍第七師団・師団長鯉登行一(熊部隊)は主力を道東に展開し、帯広十勝に全軍が駐屯。戦局はますます逼迫し、軍部は米軍進行ルートを根室海峡から釧路十勝にかけての太平洋沿岸と想定し米軍上陸に備えて沿岸築城作業を急速に強化。』『戦後60年を経た今、豊かな生活を送っている中で過去の戦争の悲惨さと苦しみを忘れないため、昭和史の教訓である広尾トーチカ群の一部を戦争遺構「生きた資料」として後世に残し、地域に根ざした平和の語り部とするものである。平成22年6月』
…個人的にちょっと引っかかる部分は省いてますw
動物が中に入らないよう銃眼口は金網でガードされています。
後部連絡口も金網でガードされています。塹壕か地下通路があった雰囲気が感じられます。
施錠されていますね。
通気口でしょうか?小さいからかここはノーガードです。
ぐるっと一周してきました。
エツキサイ南トーチカ
広尾町野塚のトーチカから北上したエツキサイの海岸にあります。こんなに剥き出しのハズもなく、海岸線の侵食などで崖から落ちたようです。
こんなコンクリートでも育つ植物は凄いですね。
これを見ると、天地ひっくり返っているように見えます。崖から落下したのは今年(2012年)の春だったようですので、落ちたてです。
崖の色も形も不自然な部分(写真中央)、あの場所にあったのでしょうか。
連絡口 |
土の跡を見ると、写真左上から右下にかけて斜めにラインがついてます。今年の春まで埋まっていた部分でしょうか?
あの崖から転がったようですが、下に人が居たら事件になっていたでしょう。実は今立っている場所に、もう一基トーチカがあります。
こちらがもう一基のトーチカです。今にも落ちそうになっています。
先程のトーチカも、今年の春まではこんな感じだったのでしょうか。