これまで訪問した、雄別炭鉱鉄道の廃線跡・駅跡・橋梁・鶴野線橋脚・大祥内線の眼鏡橋などをまとめた記事になります。
湿原の夢ロード
北海道道835号、釧路阿寒自転車道線。かつて釧路駅と雄別炭山駅を結び、石炭や貨物を輸送していた『雄別鉄道』の跡地を利用したものです。昭和45年、雄別三山(雄別・尺別・上茶路)閉山の影響で雄別鉄道も廃線となります。その後廃線跡を利用した整備が進められ、昭和53年にこの自転車道が完成しました。
自転車道は、湿原の夢ロードと名づけられていますが、名前の由来などは…この看板には書いていませんでした。
現在地は鶴野駐車場。廃線跡はサイクリングロードなので、自転車で訪問。これから起点の昭和休憩所を目指し、阿寒町内の終点まで、廃線跡を自転車で辿ってみようとしています。全長25km程度の距離、小1時間も走れば終点まで行けると思っていましたが…
昭和休憩所に到着。雄鉄昭和駅(旧鳥取信号所)付近のようですが駅の痕跡は見あたりません。湿原の夢ロードはここが起点となっていますが、雄鉄線は釧路駅から根室本線と並行し釧路川を少し北上、そこから折り返して新釧路川を渡りこの自転車道に繋がっていましたので、起点の先も調べてみることにしました。
新釧路川の手前にある鳥取中学校の裏手に、昔のものと思われる看板がありました。この古そうな看板には当時の住宅がフルネームで記載されています。現在地となっている部分を見ると、昔はもっと西側に設置されていたものが移設されたんでしょうね。
看板にはサイクリングロードの文字がありますが、手持ちの地図(昭和47年の住宅地図)で確認するとこの辺りまで自転車道らしきものが続いていたようです。サイクリングロードとして整備された当時は、ここが起点だったのかも知れません。
湿原の夢ロードの起点、昭和休憩所に戻る途中、路上にサイクリングロードのマークを見つけました。
なんてことをやってるとあっという間に時間が過ぎ、サイクリングロードに復帰した時点で40分経過。とても小1時間でなんて終わりそうもありません。ネットの情報によると、この辺りで阿寒村営軌道と立体交差していたらしいのですが、辺りを調べてもそういう痕跡は見つけられませんでした。
この辺には、北園駅があったと思われます。痕跡を探しましたが、不自然に途切れた草むらくらいですかね。
鶴野駅に向かう途中にある、ドッチボールコート。レトロ感満載w
コートには不自然な跡がありましたが、何かの施設でもあったのでしょうか。不自然と言えば、そもそも何故こんなところにドッチボールコートが?当時の流行でしょうか。
鶴野休憩所に到着。
鶴野駅のホーム跡でしょうか。
裏に回ってみると、ちゃんと階段がありました。
木目模様が見えますが、材質はコンクリのようでした。どんなホームだったのでしょうね。
ここで花の写真を撮っていたおじさんに声をかけられ、昔、雄鉄線に乗ったという想い出話を聞かせて戴きました。その方、この駅が何と言う名前だったのかを思い出せないということでしたので、偉そうに鶴野駅ですよ!なんて答えてしまいましたよw
雄別鉄道鶴野駅ホーム跡から約300m地点。ここでも鶴居村営軌道新線と立体交差していたようです。この先では釧路新道の開発が進められており、場合によってはこの橋脚も撤去されてしまうかも知れません。
雄鉄線とは関係ありませんが、雄別鉄道の上を鶴居村営軌道が通っていたようです。
裏に回ってみます。薄っぺらいコンクリートしか残ってないことがわかります。
立体感がありませんので、撮っていて楽しくありません。
道路が無い場所に、色の無くなった『止まれ』標識があります。昔の道路跡でしょうか。
北斗駅の手前にもドッチボールコートがありました。この看板、恐らく下品な落書きがあったと予想出来ますが、それにしても酷い修正のしかたですw
それにしてもドッチボールが相当流行っていたのでしょうか?散歩中のおじさんに聞いてみれば良かったかな。
北斗駅周辺です。この自転車道の三分の二程の位置になります。周辺には朽ちた木造の建物が多数あります。
これらは北斗駅の社宅跡のようです。
北斗ドッチボールコートは牧場が隣接。のどかです。ここから山花駅を目指そうとしましたが、腰が痛くなったので志半ばで中断しました。疲れたのでもう行くこともないでしょうw
ベルツナイ川橋梁
雄別炭山駅と真澄町停留所の間にある雄鉄線の橋梁です。道道222号沿いに遺っています。
上から見たところ。乗ると危ないらしいです。
下に降りてみます。
下から撮影。真ん中のパイプは水道本管とのことです。
鉄橋と道道222号の橋が並んでいます。
道道222号の橋は昭和三十?年十一月竣功となっていますが、達筆過ぎて読めませんw
大祥内線の眼鏡橋
道道667号より舌辛側沿いの林道を走ると、雄別鉄道大祥内の錦沢眼鏡橋が見えてきます。上の写真で中央にあるのが眼鏡橋、右の林道に架かるのは錦橋になります。
手元の資料によると、大祥内線については以下のように記載されています。『大祥内坑から搬出された石炭はエンドレス巻きにより大曲選炭機に運ばれ、雄別炭山駅~大曲選炭機下を結ぶ大祥内専用線で大曲・大祥内からの石炭を輸送していました。雄別通洞の完成(昭和13年)まではこの眼鏡橋を蒸気機関車が走り、石炭輸送と資材運搬・時には住民の足となり活躍しました。雄別通洞の完成後、大祥内(オショナイ)にあった事務所・購買・商店・炭住は撤退し、生産と生活の場から切り離されました。』昭和16年までは鉄道が走り、その後馬車軌道に替わり人道橋としても使われていたようです。
強度的に怪しいので橋の上には乗らないよう言われているのですが、その理由は次の写真でわかります。
裏側の様子。眼鏡橋の内部に木の根が回っていて、橋から木が生えている状態です。アーチは強いので当面は大丈夫かも知れませんね。